2014年12月24日

講師からのご回答【第6講 池田雅之 先生】

臨床仏教公開講座では受講者の皆さまからのご質問を募集し、講師の方にご回答をいただいています。
第6講にご出講をいただきました、NPO法人 鎌倉てらこや顧問・池田雅之先生のご回答をご覧下さい。
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【質問1】
子どもにとって家庭環境や親の影響は大きいと思います。てらこや活動においては、親子関係にどのように関わっているのでしょうか。また親と子の距離について、どのような工夫をしているのでしょうか。
【回答】
緊張した親子関係の中間に学生が関わることによって、親子の関係がやわらかく変化していくケースがしばしば見られます。
子どもたちが学生たちに無条件に受け入れられ、親しみのある関係を築いていくことによって、子どもは学生に心を開いていくだけでなく、母親・父親に対しても心穏やかになり、以前にもまして、より親近感を抱くようになります。
学生が親子の仲を取り持つ不思議な作用が起こるようです。
私たちの想像以上に、親子関係のリセットに学生の役割は重要だと考えています。


【質問2】
「鎌倉てらこや」では、僧侶はどのように参加しているのでしょうか。僧侶もお話のなかにあった「大人」のカテゴリに含まれ、他の大人の方と一緒に活動しているのでしょうか。
【回答】
毎年、建長寺合宿では5〜6名の若い僧侶の方々が、学生スタッフに混じって参加されます。
本来、「大人」カテゴリーですが、学生と子どもを結ぶ重要な役割を担っています。
僧侶という特殊な立場は、学生と子供には新鮮な存在ですが、
その方々が、みんなと歌ったり、時には踊ったり、あるいは物を作ったりして、一緒に参加してくれることは、温かな3世代の交流を生んでいます。
若い僧侶の方々の参加は、こどもたちにとって意外性があり、子供も大人も若者もお寺に親しむ良い機会となっています。


【質問3】
学生がそれぞれ考え活動することで、子どもたちの情操教育につながり、良い環境作りになっていると思いました。しかし、大学のある都市部ではなく、少子高齢化と過疎化が進んだ地方においてこの実践は難しいようにも感じられました。こうした地域では、寺院がどのように活動していけばよいと思われますか。
【回答】
たしかに地域によって、さまざまな難しさがあるかと思います。
どのように若者、子供、大人たちを集め、交流させるかは、大変な難問だと考えます。
しかし、他の地域の人々を呼んだりこちらから出かけたりしながら、細々ながら交流を重ねていくことから何かが始まるのではないかと思います。11年前は、鎌倉てらこやも全くどうしていいか分からず、暗中模索でした。
工夫をこらし知恵を絞りながらやっていくうちに、形が見えてきました。ぜひ頑張って取り組んで頂きたいと思います。
posted by 全青協 at 10:07| Comment(0) | 公開講座

2014年12月22日

講師からのご回答【第5講 柳川眞理子 先生】

臨床仏教公開講座では受講者の皆さまからのご質問を募集し、講師の方にご回答をいただいています。
第5講にご出講をいただきました、自死・自殺に向き合う僧侶の会元代表 柳川眞理子先生のご回答をご覧下さい。
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【質問1】
自殺という言葉を用いず、「自死」という言葉が使われるようになったのに、どのような理由や背景があるのでしょうか。また、これらの言葉には何か明確な区別があるのでしょうか。
【回答】
「殺」という漢字の持つイメージが強烈で、遺された家族の心に突き刺さるという配慮と、仏教の「不殺生」を連想させる言葉から「自殺したら成仏できない」という間違った解釈が生まれる要因を避ける為に、近年、「自死」という、それ自体に「良い・悪い」という価値観を含まない言葉が使われるようになりました。遺族会の中には、すべての表示を「自殺」から「自死」へ変更するように行政に働きかけているところもあり、実際、島根県ではすべての公文書において、言葉の置き換えを行なっていると聞いています。
しかし、遺族の中には「パワハラ」や「いじめ」が原因で自死に至った場合、会社や学校に「殺された」と受け止めている方もあり、どちらが適切かという判断は一概には難しいのが現状です。尚、当会が「自死・自殺」と両表記をしているのは、それぞれの立場に配慮してという理由もありますが、インターネットの検索の際、「自死」「自殺」のどちらからでもヒットすることができるようにする為です。


【質問2】
「安楽死」について、仏教ではどのように考えるのでしょうか。また、手紙相談を行う際の注意すべきこととして「依存をさせない」とありますが、これは具体的にはどういうことでしょうか。
【回答】
仏教における「安楽死」「自殺」の解釈については、原始仏典「雑阿含経」に出て来る仏弟子、ヴァッカリの逸話がよく引き合いに出されます。お釈迦様は病の辛さから自ら命を絶ったヴァッカリに対し、「どのように死んだか?」という亡くなり方に関する価値判断(良い・悪い)は一切しておらず、ただ、「どのように生きたか?」と生き方を問題にし、その生き切った命を尊び、必ず、涅槃に到達したであろうと弟子達に伝えています。それは、一瞬たりとも「いのち」を我が物とは考えない、縁起や空の世界につながっていくものであろうと考えます。
また、「依存をさせない」というのは、手紙相談のゴールを「卒業」に定めている為です。ここでの依存は人や手紙に執着する事ですが、本来、解決しなくてはならない問題、苦しみの本髄から意識が離れ、他のものに転化してしまう事を避ける事を意味します。たとえば、自死念慮の原因が「孤独」だった場合、自分の心を理解して受け入れてくれる僧侶の存在は、依存の対象となり、だんだん、往復書簡そのものが、生きる支えになってしまう場合があります。相談者の中には、回数を重ねていくうちに、自死に至るほどの悩みが見つからなくなり、雑談や人の批判、愚痴のはけ口としての「文通」を100通以上も送り続けている方もおります。この場合、すでに「自死念慮」が無いわけですので、「卒業」して頂く事になりますが、ここまで、文通が継続してしまうと、なかなか難しく、そうなる以前に、早い段階で担当僧侶が苦しみの原因に光を当て、相談者自身が問題解決に向かって自立していく回復力を促す必要があります。
ただ、そのタイミングの見極めは、経験や技量による所が多く、相談者の気質にも寄りますので、3人一組で対応している理由のひとつにもなっています。


【質問3】
「自殺をした人は成仏をして、苦から解放される」とお話いただきましたが、私は、僧侶は原則的に生きることの大切さを説くべきだと思っています。辛いことがあったとき、自殺しても構わないということになってしまうのではと危惧しておりますが、先生はどのようにお考えでしょうか。
【回答】
「自殺をした人」ではなく、いのちの平等性を説く仏教に於いては「自殺した人」救いの対象だとお伝えしています。ただ、「成仏」という言葉は各宗派で受け止めが違いますので、私は自分の信仰の中で「自死された方は、生死に真摯に向き合い、命を精一杯生き切って、今は苦しみのない仏さまの世界に生まれて往かれた」と伝えています。それは、「いのち」の問題は、人間の計らいを超えた、仏の智慧の領域にお任せするしかないと受け止めているからです。
これは、当会の統一した見解で、他宗の僧侶から異論が出た事はありません。私は浄土真宗の僧侶ですので、阿弥陀如来の大慈悲は、あらゆる命を平等にお救い下さると信じています。
しかし、これは大切な方を自死で失い、今、苦しみのどん底にいる自死遺族の方に発する言葉で、自死念慮の方に、「自死しても成仏できる」とは決して申しません。それは、その方に私が「生きていてほしい」と願っているからです。
本来、仏教が究極に目指す所は「苦」の解決であり、その為には「智慧」を獲得する事が必要です。「生きる事が大切」というのは、確かに道徳的には異論の余地がありませんが、また、人間のみが持つ価値観だとも言えるかもしれません。ただ、「生きる事、死ぬ事」を善悪で判断する限り、「生きる事が死ぬよりつらい」という人の苦しみを受け止め、寄り添う事は難しいのではないかと思います。
自死念慮の方を前に、私が伝えたいのは、「私はあなたに生きていてほしい。」という事です。それは、いつの日にか、仏の慈悲と智慧のハタラキによって、その苦しみを超えられる日が必ず来ると、信じているからです。
posted by 全青協 at 18:14| Comment(0) | 公開講座

講師からのご回答【第3講 林茂一郎 先生】

臨床仏教公開講座では受講者の皆さまからのご質問を募集し、講師の方にご回答をいただいています。
第3講にご出講をいただきました、立正佼成会附属佼成病院緩和ケア科部長・林茂一郎先生のご回答をご覧下さい。
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【質問1】
佼成病院では、今後、臨床仏教などの勉強・実習を積んだ宗教者をチャプレンのように受け入れるというお考えはおありでしょうか。また、その場合には、条件や体制はどのようなものが望ましいと思われますか。
【回答】
ご質問ありがとうございます。
お答えいたします。
 現在は、佼成会の会員の方でカウンセリングの資格を有している方が数名、準ボランティアな立場で「心の相談員(スピリチュアルケースワーカー)」として病棟に来ていただき、話相手やお茶会などの催しを行う時などにお手伝いをいただいています。
 今後は、今回のような研修にご参加いただいた方が「心の相談員」として多くなってくれればと思いますが、資格・立場としてはボランティア的な参加になっていただくのかと思われます。
 医療行政を見てみると、肉体的なリハビリとか、精神的なリハビリには理学療法士とか、作業療法士にたいする医療としての対価がありますが、心のリハビリである、傾聴とか音楽療法などには医療としての対価がない現状からすると志ある方たちのボランティアとしての立場での活動にお願いするしかないのが現状と思います。


【質問2】
モルヒネ等が効かない癌の疼痛に対してはどのような緩和ケアを施しておられるのでしょうか。何か具体例がおありでしたらお示しいただけますでしょうか。
【回答】
ご質問ありがとうございます。
お答えいたします。
一口に「いたみ」と表現しますが、「いたみ」の原因は様々で、痛みがある
から不安になり、不安があるから痛みが増強されるという悪循環で、疼痛管理は、その循環を薬物(医療用麻薬とか補助剤:抗不安剤、抗けいれん剤、副腎皮質ホルモンなど)で断ち切るか、傾聴を含めた人的支えで断ち切るかだと思います。
単なる、肉体的な疼痛であれば、相当なところまで薬物が功を奏すると思い
ます。そのためには患者さんに痛みの仕組み、鎮痛剤なかでも、麻薬の効果を含め、「麻薬は最後の薬」的なものではないことを早期からきちんと説明することが必要だと考えています。
がまん強さがいいのではなく、きちんと自分なりの表現が出来るように周囲
が支えることが重要だと考えています。


【質問3】
最近アメリカで大きな話題となった「尊厳死」に関しては賛否両論がありますが、癌の痛みがどうしても取れない患者さんに対し、安楽死は緩和ケアとして考えることができるのでしょうか。
【回答】
ご質問ありがとうございます。
お答えいたします。
あくまでも私信ですが、「尊厳死」と「安楽死」は異なる次元の問題と考えています。
「尊厳死」は(本来の定義とは外れるかもしれませんが、)その人の持っている「生命の力を使い切る」ための援助をする事、鎮痛剤を使う、鎮静剤をどれだけ使うにしても、決して「致死量」を処方するものではありません。
それに比して、「安楽死」は本人の意思、周囲の理解を得たにしても最終的
には「医師の薬物に対する処方権」により、薬物を「死」に至らしめる量「致死量」を処方し投与することと考えます。
国民性、民族性、宗教的考え、信仰心など様々な要因で考えは異なるので一
概には言えないとはいうものの、緩和ケアはその人が生きていくための援助であり、「死」に至らしめる方法論とは、切り離して考える必要があると思います。


【質問4】
ご家族など残された人に、死ぬことの意味をどのように伝えていらっしゃいますか。
【回答】
ご質問ありがとうございます。
お答えいたします。
残念ながら、「いまの医学教育にはこの事に関する教育はいっさいありませんと」いってもよいと思います。
一介の「臨床医」としては、死ぬことの意味までの話は出来ませんが、死に至る医学的な体調の変化については見極め、説明することができるようになりました。
 患者さんの体調が落ちてきた時にはなるべく「遅きに逸しないように」、ご家族、時にはご親戚の方々も含め現状をお話しさせていただき、「心の準備」、世間ではまだまだそんなことは縁起でもないといわれるような「葬儀社の準備」お帰りになる時の「その人らしい衣服の準備」を前もってしていただき、その時にあわてず、ご本人のそばにいていただけるよう説明をしています。
 「死の意味」というより「死を迎え入れる心の準備」として「死」をお話しさせていただいています。
 当院の緩和ケア病棟の「お看取りは」あえて医師が決めるのではなく、看取る方たちの心が落ち着き、「もう大丈夫です。帰る準備が出来そうになったので時間を決めて下さい」。というまで、待っていますからあわてないでそばにいてあげてくださいとも説明しています。
posted by 全青協 at 18:01| Comment(0) | 公開講座